撮影日:2007年11月17日 15時05分
カメラ:メーカ=Panasonic モデル=NV-GS500

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徳川家康(いえやす:1542年12月26日~1616年4月17日)
 
このお墓は、昭和44年、岡崎市民の手により、家康の遺品を納めて建てられたものです。
実際の家康の遺骨は、日光東照宮にあります。
形も、日光東照宮のものを真似て、岡崎名産の御影石で作られています。
 
家康は、天文11年(1542)12月26日寅の刻(午前4時ごろ)生まれました。
そして、元和2年(1616)4月17日、巳の刻(午前10時ごろ)に亡くなっています。
 
幼少から今川家や織田家の人質に取られ、援助してくれていた今川義元が
織田信長に討たれると、自分も信長に殺されるのでは?、と岡崎に逃げ帰ってきます。
大樹寺の先祖の墓前で自害しようと悩んでいたところを当時の住職登誉天室上人に
「厭離穢土、欣求浄土」と諭され、その後一念発起して天下を取るまでになります。
 
ところで、なぜ、苗字を「松平」から「徳川」にしたのでしょうか。
それは、初代親氏が、清和源氏の新田氏の支族で、南北朝時代の争乱で負けて
没落した世良田氏(得川氏)の一族の世良田有親(長阿弥)の子とされているからです。
つまりは、家康は源氏の子孫、得川(または徳河)氏の一族だ、ということからです。
この話は、本当のことかはわかりません。
家康が、将軍として認めてもらうために企んだことかもしれないのです。
 
こんな、家康の「狸爺(たぬきおやじ)」ぶりは、他のところでも出たそうです。
家康に目を付けられると、お城の石垣を直したということだけでも、
反乱のたくらみではないか?と因縁をつけられたそうです。
 
まあ、お墓の前であまり悪口は言ってはいけないかもしれませんね(^^;;
 
とにかく、若い頃は人質人質で、その後戦乱の世の中から天下統一を果たし、
十五代まで300年続いた江戸時代を作った方ですから、それくらいのずる賢さは
必要かもしれませんね。
 
※当時の話は、現在残っている物語と研究者の推論でしかありません。
※本によってはまちまちな事が書かれているので、このお話も楽しむ程度で読んでくださいね(^^;

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