最終更新日:2019年09月30日
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東照公遺訓碑

お城入り口の手前右側にある、東照公遺訓碑です。
家康が征夷大将軍に命じられたときに遺訓を書いたといわれています。

人の一生は重荷を負(おい)て遠き道を行くがごとし。いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、こころに望(のぞみ)おこらば困窮(こんきゅう)したる時を思いだすべし。堪忍(かんにん)は無事長久(ぶじちょうきゅう)の基(もとい)、怒りは敵とおもえ、勝事(かつこと)ばかり知りて、ま(負)くることしらざれば害(がい)其(その)身(み)にいたる。おのれを責(せめ)て人をせむるな、及ばざるは過(すぎ)たるよりまされり。
慶長8年正月15日
人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな
昭和11年12月 伯爵徳川達孝(さとたか)謹書

東照公遺訓碑由来

この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢二郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。
翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和18(1943)年3月98歳の天寿を全うされた。
翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の為に時の小瀧市長の賛意を得て建立に到った。
碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には竜城を象徴する、竜を配し、製作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。
碑裏面には、昭和11(1936)年4月16日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の遺志により省略されたままであるが、本年は、遺訓碑が建立されて50年、また、岡崎市制70周年の記念すべき年にあたり、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。

昭和61(1986)年12月26日
岡崎市長 中根鎭夫


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