最終更新日:2019年8月13日
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二十七曲りとは?

岡崎城下の北側にある、(旧)東海道は、左へ右へと、くねくねと曲がっていて、通称「岡崎の二十七曲り」と呼ばれています。
これは、敵が城に攻め込もうとした場合に、城に近づこうとしても、なかなか近づくことができないよう、防衛上のために意図されて作られた曲がり角で、田中吉政が天正18年(1590)年に岡崎に入城した際に、城下町を整備して作られました。
後に、この曲がり角のおかげで、街道沿いに、よりたくさんの旅籠やお店を作ることができ、岡崎宿は東海道53次中、3番目の規模を誇る宿場といわれるようになりました。
現在の東海道、国道一号線はまっすぐに路線が作られましたが、欠町、両町、天馬通から籠田を抜け、連尺通、材木町、田町、板屋町、八帖町、矢作橋へとつながる(旧)東海道には、二十七曲りを示す石碑が現在の街並みにも置かれていて、当時の面影をしのぶことができます。
岡崎公園に寄ったついでに、二十七曲りを散策してみては、いかがでしょうか?

東海道は、鎌倉時代になって京都から26番目の宿が矢作宿(岡崎市の西方)であり、14世紀末ごろ、岡崎郷が明大寺に出現しました。
天正18年(1590)、田中吉政が岡崎に入城し、城下町の建設にとりかかり、乙川の南を通っていた東海道を城下に導きいれ、矢作橋の架設に着手しました。
慶長6年(1601)、本多康重が岡崎藩主となり、城下町建設を引き継ぎ、矢作橋を完成させました。
慶長12年の大洪水によって八町の町民を城東の台地に移し、伝馬町を新設し、続いて連尺町篭田町両町も作られ、町並みがほぼ完成し、
「岡崎宿三十六町二十七曲」といわれるようになりました。
城下の街角を多くしたのは、敵が城に近づかないようにするため、からですが、町並みを長くした分、街道沿いの商家も増え、賑わいを招く利点も考慮されたものとおもわれます。

石碑の説明文より

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岡崎城の歴代藩主

-石碑の説明文より-

西郷稠頼(よりつぐ)
-三代略-
西郷信貞(のぶさだ)
松平清康(きよやす)(1524~1535)
松平弘忠(ひろただ)(1535~1549)
-今川氏城代-
徳川家康(いえやす)(1560~1570)
松平信康(のぶやす)(1570~1579)
-徳川氏城代-
田中吉政(よしまさ)(1590~1600)
本多康重(やすしげ)(1601~1611)
本多康紀(やすのり)(1611~1623)
本多忠利(ただとし)(1623~1645)
本多利長(としなが)(1645すぐに移封)

水野忠善(ただよし)(1645~1676)
水野忠春(ただはる)(1676~1692)
水野忠盈(ただみつ)(1692~1699)
水野忠之(ただゆき)(1699~1730)
水野忠輝(ただてる)(1730~1737)
水野忠辰(ただとき)(1737~1752)
水野忠任(ただとう)(1752~1762)
松平康福(やすよし)(1762~1769)
本多忠粛(ただとし)(1769~1777)
本多忠典(ただつね)(1777~1790)
本多忠顕(ただあき)(1790~1821)
本多忠孝(ただなか)(1821~1835)
本多忠民(ただもと)(1835~1869)
本多忠直(ただなお)(1869~1871)
-廃藩置県-

⇒歴代藩主の詳細に関しては、岡崎城のページをご覧ください。

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東海道分間延絵図

正式には「五海道其外分間見取延絵図」といい、江戸幕府の道中奉行所が、寛政12年(1800)頃から文化3年(1806)にかけて測量をし、約1800分の一の縮尺で描いたものです。「五海道」とは、東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中の五海道のことで、絵図には主要海道の他、脇道、宿場、寺社、旧跡、一里塚、高札上、橋など海道の様子が詳細に記入されていて、行政上必要な内容がすぐに分かるようになっていました。
この絵図は、五海道全てで52巻に及ぶのですが、そのうち東海道を描いた「東海道分間絵図」だけで、13巻に及びます。延絵図は3部作られ、江戸城内に1部、道中奉行所に2部が置かれましたが、現存するのは2部のみで、一部は東京の国立博物館、もう一部は、逓信博物館に保存されています。
なお、この地図は、折本仕立て(伸ばすと横長になる)になっているのですが、実際の道の曲がり角をそのまま描くと地図の縦の長さが長くなってしまうので、ゆるい曲がりで描いて、そのわきに、北に何分などと注約を記しておいて、本来の曲がり具合を示しているそうです。


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