撮影日:2009年04月05日 13時56分
カメラ:メーカ=Panasonic モデル=NV-GS500

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岡崎三郎信康について。
 
信康は、松平元康(家康)と築山御前の間の嫡男として駿府で生まれました。
幼少期は、今川家の人質として駿府で過ごしてきましたが、
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れた後、人質交換として岡崎城に移ります。
永禄5年(1562)、家康と信長による清洲同盟が成立。
永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し
共に9歳の形式の夫婦だが、岡崎城で暮らす。
同年6月に家康は浜松城に移り岡崎城を譲られ、7月には元服する。
信康は若い頃から勇猛果敢で、天正3年(1575年)17歳で初陣を長篠の戦いで飾り、
その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、闘いぶりが注目された。
会話はいくさのこと、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったと描かれています。
 
徳姫との間には2人の娘が生まれたが、なかなか男子が生まれないことや、
信康の母、築山御前が徳姫に辛く当たること、信康も母に加担することなどで、
夫婦仲は冷え切り、また、当時、織田と手を組んでいた松平(家康)に対し、
築山御前が敵対する武田氏と内通をしていたと、徳姫が父の信長に訴状を出します。
結果として、築山御前は殺害、信康は自害をしてしまうことになりますが、
訴状に対して、信長は真実を確認するため、松平家の重臣に事情を聞きます。
重臣にも知られていることで弁明を行いますが、当時武田との戦いに対して
信長から援助を受けていたため、築山御前の一件に関しては弁明できなったといいます。
 
もっとも、この件に関しては、いろいろな説があり、家康と築山御前の仲もさめていたこと、
築山御前と信康殺害の件に関しては、信長が「信康を殺せ」といっているのではなく、
「家康の思い通りにしろ」と言われている事、
家康と信康との間の仲も冷めていた事が挙げられます。
また、他の説としては、派閥抗争で、浜松の家康派と岡崎の信康派に別れ、家康を排除しようとして
逆に信康以外にも信康の重臣や奉公人が次々と懲罰や処刑されたという説もあります。
&#9654築山御前についてはこちら

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