最終更新日:2019年08月02日
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時代劇「大岡越前」でもおなじみの、大岡越前守忠相(1677~1751)が、一万石の大名となってから、明治まで西大平藩主大岡家の陣屋が置かれてたところです。ちなみに、江戸時代は城を建てることが禁じられていたため、陣屋が建てられました。 陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主を慕う旧藩主や領民から、陣屋跡を保存するとともに、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、その後大岡家別邸として復活しました。現在は公園として整備されています。

西大平藩陣屋跡:名鉄バス美合行きに乗り「大平」バス停下車西へ200m
カーナビマップコード:51668415*74 (駐車場なし)

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西大平藩陣屋

西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前の将軍、吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)旧暦10月1日に三河国宝飯(ほい)・渥美(あつみ)・額田(ぬかたぬかた)3郡内で4080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地が最も多かったことが考えられます。
しかし、大岡忠助が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目忠宣が継ぎ、廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。
大岡家は、江戸に常駐する定府(じょうふ)大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多いときでも郡代(ぐんだい)1人、郡奉行(ぐんぶぎょう)1人、代官(だいかん)2人、手代(てだい)3人、郷足軽(ごうあしがる)4、5人程度でした。

看板より

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西大平藩(庭園)

西大平藩の成立は、大岡忠相が寛延元年(1748)に奏者番(そうじゃばん)兼、寺社奉行(じしゃぶぎょう)に就任して三河国宝飯(ほい)・渥美(あつみ)・額田(ぬかた)3郡内で4080石を加増され1万石の譜代大名となり、西大平に陣屋を設置したことに始まります。安永元年(1772)以降は藩領の変動はなく、1万石の内訳は三河国4郡内に9千石余、常総・相模の2国2郡で1千石余となり、大部分が三河国内に所在していました。
(この庭園は、額田組12か村を石で表しています。)

看板より

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大岡越前守忠相

「大岡裁き(おおおかさばき)」で有名な大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)は旗本の家柄に生まれ、徳川八代将軍吉宗(よしむね)の下で江戸町奉行として仕え、享保(きょうほう)の改革を断行する大きな原動力となりました。著名なものに、相対(あいたい)済(すま)し令・目安箱(めやすばこ)・小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)設置、いろは四十七組の町火消(まちびけし)の組織化、江戸防火対策である火除地(ひよけち)の確保と「瓦ぶき」屋根とする建築基準の設置など、江戸庶民の生活向上に力を注ぎました。また問屋・仲買・小売の流通段階での株仲間組合の組織化や、金銀相場の改訂・通過改鋳(かいちゅう)による物価安定策などを打ち出し、幕府財政の立て直しを図りました。晩年は譜代大名にとりたてられ、奏者番(そうじゃばん)兼、寺社奉行(じしゃぶぎょう)として職務を全うしました。宝暦元年に75歳で没し、相模国堤村(現神奈川県茅ケ崎市)の浄見寺(じょうけんじ)に葬られました。

看板より

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大岡稲荷社

寛延元年(1748)一万石の譜代大名になった大岡越前守忠相公は、西大平藩主として三河国額田郡西大平村(現在地)に陣屋を置いた。忠相公は、領地に近い三河国宝飯(ほい)郡豊川村にある豊川稲荷の本尊「吒枳尼眞天(だきにしんてん)」を厚く信仰した。江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、ここ西大平藩屋内に大岡稲荷として社殿を建立し、「豊川吒枳尼眞天」を本尊として祀った。
現社殿は、忠相公没後250回忌の記念事業として平成14年(2002)に再築されたもので、大岡家の守り本尊として代々引き継がれ守られている。なお、毎年4月には大岡稲荷奉賛会が中心となり例大祭が行われている。

看板より

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