最終更新日:2019年09月14日
画像差し替え済

↓INDEXへ

37代天皇の斎明天皇(655~661:女帝です)の勅願により、東北塩釜の六所大明神を祀るために創立されたと言われています。
松平家の信仰も厚く、竹千代(のちの徳川家康)が生まれたときに、産土神として拝礼が行われた神社です。現在も、安産の神様として有名です。
また、ここも純情きらりのロケ地です

交通:名鉄東岡崎駅から豊橋方面に徒歩3分
カーナビマップコード:51695557*85

↑Topへ

INDEX

↑INDEXへ

参道

東岡崎駅北口を出ると東側(豊橋方向)に、六所神社の赤い第1の鳥居があります。

↑INDEXへ

社記

社記

御祭神:塩土老翁命(塩竈大神)・猿田彦命・事勝国勝長狭命・衝立船戸神・太田神・興玉神・他10柱

重要文化財:本殿・幣殿・拝殿・神供所・楼門・御厨子6基・棟札6枚

由緒略記:
37代天皇の斎明天皇(655~661:女帝です)の勅願により、奥州塩竈六所大明神を勅請され、神領をご寄進のうえ創立されたと伝えられている。
その後50代天皇の桓武天皇の代(781~806)に、「田村麿将軍」が東夷征伐のため、ご下向なさる折御祈願し、天皇に奏聞、勅許の上再建され、「六所大明神」の勅額を下賜された。
降って松平氏が三河入国以来、代々崇敬厚く天文11年(1542)12月26日岡崎城にて徳川家康公ご誕生の折には、産土神としてご拝礼になった。
慶長7年(1602)には家康公よりご朱印状を下され、石高「62石7斗」を贈られ、同9年社殿ご造営の上、御神器の品々をくだされた。後、3代将軍家光公も寛永11年(1634)、ご上洛の折岡崎城にて遥拝され、御名代「松平伊豆守」を社参、百石を加増された。
その朱印状には「六所大明神は東照大権現降誕の地ある霊神なり、是を以て崇敬他と異なり」とある。さらに家光公は同11年から13年にかけて御普請奉行「本多伊勢守」、神主「大竹大膳久次」により社殿および神供所をご造営された。この時のご造営により本殿・幣殿・拝殿を連結し、華麗な彩色を施した権現造の社殿が完成した。これが現在重要文化財に指定されている社殿である。やや遅れて貞享5年(1688)に楼門が建てられた。昭和48年より3か年の歳月をかけて修復工事を行い、往時の絢爛豪華な姿に再現された。

↑INDEXへ

参道は、踏切を渡ります。

↑INDEXへ

境内

↑INDEXへ

浄水鉢

手水舎の事なのですが、ここに使われている石に、いわれがあるみたいです。

浄水鉢の由来(要約)

この石は、飛騨の門原村(現在の下呂市門原)、飛騨川のほとりの、孝子水と呼ばれる場所の、孝子岩と呼ばれる岩の一部です。
孝子岩の由来は、南北朝、正平時代(1346~1370)の昔、南朝の家来、門原左近と、その子供の右近親子がサムライを捨て人足を生業としながらひっそりと暮らしていました。そこから、この地を人々は門原村と呼ぶようになったとか。
ある日、父左近が病にかかり、いよいよ命も尽きようとしているとき、琵琶湖の水が飲みたいと、息子の右近に頼みました。右近は、すぐに水を汲みに行きましたが、その帰り、あと少し、というところで、父が亡くなった、と知らせを受けます。右近はとても悲しみ、残念だと思い、汲み取った水をこの地に捨ててしまいました。そこから、この地は、孝子水と呼ばれるようになり、岩を、孝子岩と呼ぶようになりましたとさ。ちなみに、この場所、大雨洪水が起ころうとも、水が濁ることはなかったそうです。
その孝子岩の浄水鉢は、とても珍しいものである、と、寄進されたそうです。

※岐阜県下呂市に、考池水(孝子ケ池)という池がありますが、それが、同じエピソードがあって出来た池だと思うのですが…。
そこの池の看板には、「左近が、母親のために琵琶湖の水を汲みに行く」、というお話に変わっています。全然、父と子のお話ではないですね~。どちらが正しいのでしょうかね??

↑INDEXへ

その他境内

↑INDEXへ

有形民俗文化財の看板

岡崎市指定文化財
六所神社

有形民俗文化財:六所神社絵馬群 83点

六所神社は、徳川家康の産土神として崇敬をうけ、今の社殿は3代将軍家光によって、寛永11年(1634)より同13年にわたって再建された。現在、本殿・幣殿・拝殿・神供所・楼門が重要文化財に指定されている。主な絵馬は次のとおり。

●楠公父子、桜井駅別れ図
南朝の侍、楠正成が湊川での決戦を前に、息子正行に別れを言い渡す場面を描く。
●算額
六所神社楼門(重文)の裏側左右上部に掲げられていた諸額の一つ。算額は寛文年間(1771~80)にかけて盛んに奉納された。人々が集まる寺社に掲げ、算額の回答を待ったり、自分の解法を発表する役割をなした。また学問の成就を祈願している。
●金的中額
永禄7年(1564)から文久2年(1682)の間の奉納。
家康の庇護のもと、三河では古くから弓道が奨励された。金的中額は神社の神事(射芸)で的中したときに奉納された。これは弓道が神事として敬虔なものであったからである。
六所神社には数多くの金的中額が奉納されており、地域の弓道史を語る貴重な資料となっている。

平成3年(1928)2月6日指定

岡崎市教育委員会

↑INDEXへ

楼門

入母屋造りの楼門です。貞享5年(1688)に建てられました。
ちなみに、六所大明神の額が掲げられていますが、桓武天皇(781~806)直筆の額です。
あと、手前の階段は、石高5万石以上の大名じゃないと登ることが出来なかったそうです。

↑INDEXへ

社殿

安永11年ごろに建てられた、社殿です。
権現作り(本殿・幣殿・拝殿が上から見ると「エ」の字の形につながる建物様式)になっていて、江戸初期に流行った極彩色で、豪華な彫刻がされています。

↑INDEXへ

境内(楼門より中)

純情きらりのシーン、3話で、桜子がキヨシと決闘をするシーンで撮影された、神供所のほか、大黒様などがあります。

↑INDEXへ

三晃大黒社

開運招福・商売繁盛の神様で「三河の地に明るい光を照らしてくださる大黒様」だそうです。大黒様の縁日は、甲子(きのえね)の日ですが、大黒さんはネズミと愛称が良いこと(大国主命のエピソードで、ネズミに逃げ道を教えてもらった話)から由来するのでしょうか?

↑INDEXへ

母子犬

犬は、たくさんの子犬を産みながらも、安産であり、お産が軽い、とうことにあやかり、犬が祀られています。安産の神様、六所神社ならでは、ですね。


↑INDEXへ

関連

0件のコメント

コメントを残す