撮影日:2009年04月05日 13時52分
カメラ:メーカ=Panasonic モデル=NV-GS500

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家康の側室、築山御前と、築山御前との間の長女、亀姫です。
 
築山御前の出生は不明ですが、父は今川家一門、関口義広、母は今川義元の妹で、
築山御前は、今川義元の姪にあたります。
弘治3年(1557)、今川家の人質だった松平元康(後の徳川家康)と結婚。
永禄2年(1559年)に信康を、同3年(1560年)に亀姫を産みます。
桶狭間の戦いで、伯父の今川義元が討たれ、元康(家康)は命からがら
岡崎に帰還することとなりました。
後永禄5年(1562)3月、家康が織田信長側についた咎めを受けたため、今川氏の怒りを買い
築山御前の父が正室と共に自害してしまいます。
当時駿府城に住んでいた築山御前は、人質交換により、岡崎に戻ることになります。
しかし於大の方の命令により岡崎城には入れず、
城の外れの寺で、幽閉同然の生活を強いられたといいます。
永禄10年(1567年)、信康と織田信長の長女徳姫が結婚。元亀元年(1570年)4月下旬、
築山御前も岡崎城での暮らしをする事ができるようになるのですが、
信康と徳姫の間にいつまで経っても男子が生まれないため、
元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘で
部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせました。
また、築山御前が徳姫に辛く当たり折り合いが悪く、
信康も母に加担して夫婦の仲も冷え切っていた事を、
徳姫が信長に訴状を送り、築山御前は殺害、信康は切腹に追い込まれたと言われています。
&#9654岡崎三郎信康についてはこちら
 
一方亀姫は、永禄3年(1560)駿府にて築山御前を母として家康(19歳)の長女として生まれました。
そして、17歳で新城城主、奥平九八郎信昌に嫁ぎました。
亀姫42歳の時、信昌は関が原合戦の功績により美濃国加納城10万石城主となります。
亀姫は生涯信昌に一人の側室も置かせず、4男1女を生み、
加納御前、加納の方と敬愛されたそうです。
夫信昌に先立たれた後は、残された幼い孫たちの後見役として奥平家を守って行きますが、
中でも有名なのが「宇都宮釣天井事件」というお話です。
 
『7歳で宇都宮城主となった、孫の忠昌は下総国古河へ転封となった。
そして15万石で宇都宮に入封した本多正純を快く思わなかった亀姫は、
徳川秀忠が日光に参拝したおり宇都宮城に泊まることになり、その際
宇都宮城の湯殿の天井に仕掛けをして将軍を圧殺するという正純の計画を、
密かに秀忠のもとに知らせたと言われている。
このため正純は配流の身となり、再び亀姫の孫の忠昌が宇都宮城主に代り咲いた』
 
とか。この事件は芝居などにもなり脚色された面もあるそうですが、
亀姫の奥平家存続への強い意思と願いがこめられた事件です。

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