岡崎公園散策マップ:小瀧喜七郎翁像
小瀧喜七郎翁像
小瀧喜七郎(おだききしちろう)
(明治5年5月18日(1872年6月23日)~昭和26年(1951)12月14日)
碧海郡書記の後、岡崎町書記、助役を経て、4代目岡崎市長になりました。
- 岡崎公園の修築改善を行いました。定期的に公園を巡視し、草木の一本一本の手入れにまで注意を払わせたことから、「公園助役」「公園市長」の異名が付きました。
- 市の近代化を目指して、上水道、あと市の中心部に下水道を完成させました。
- 日清レイヨン(日清紡)、日本レイヨン(ユニチカ)を誘致しました。
- 矢作川改修工事の国との折衝に成果を上げました。
- 龍城橋を建設しました(昭和10年(1935)10月26日完成)。
1件のコメント
松山聰司 · 2025年6月15日 11:09 PM
喜七郎氏の孫と友人でしたが、彼は20年近く前亡くなりました。今になりこの方の祖父が岡崎藩士で東軍流の13代目を継いだ小瀧文五郎という方と解り友人と150年程の時を経て再開出来たのに残念です。当方の祖父がこの文五郎先生に東軍流を指南され14代目の東軍流の伝承者になりました。大和町公民館に武運長久という石碑が保存されてます。130年以上前の明治初期から中期にかけての話です。
徳川家康公の四天王の一人で岡崎藩主の本田家にゆかりの剣術です。江戸中期には全国に広がり、赤穂藩家老の大石倉之助も習っていたという、江戸五大剣術流派です。江戸末期に岡崎に帰ってきました。岡崎藩最後の剣術指南役(東軍流12代目)佐藤冶太夫という方、その息子で養子に出て大剣士になった、三橋寛一郎氏は、東軍流と武蔵流(宮本武蔵の流派)の免許皆伝で父から習った東軍流を岡崎に置いて、京都に上り、武徳会の大範士や警察の武術方になられた強者です。喜七郎氏も立派な市長さんでこの胸像は2~3度拝見させて頂いてます。